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ラ・ヴィータ 観劇記 /寺田 操 
2016-10-31 Mon 21:52
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ラ・ヴィータ 観劇記 /寺田 操 
外では木枯らし一番が吹き、劇場内では人生の終幕に木枯らしが吹き荒れた。劇団ふぉるむ2016秋公演「ラ・ヴィータ ~愛と死をみつめて~」(作・高泉淳子)の幕があがると、舞台の中央に白髪の老人が椅子に座り、「私はいつも遠くへ行きたかった」と語りはじめた。長い長い独白のあとに、彼と関係した人々が長いテーブルに座り、晩餐会をはじめる。亡き父母、妻、娘、弟、愛人、友人…彼らが目の前に座る老人とどのように関わってきたか。生者と死者が時空を超えて区別なく席についてお喋りをしている。誰にどんな風に思ってもらいたかったのだろう。スクリーンの外から老人が彼らの幻影を複雑な表情で眺めている。このまま老人と彼等との間に見えない紗のカーテンが引かれたまま進行するのかと思いきや、現実と幻影の境界が解かれ、人も物も出来事もカオス状態で、舞台は混戦模様。父母との思い出、結婚、娘が生まれ、愛人ができて家を捨て。フラッシュバックしながら、懐かしい家族や友人や愛人たちとの回想場面、自身の少年時代との対面などが老人の脳内で紡がれる。舞台狭しと走り回るいささか狂気に満ちた人達。ここに現われるのは懐かしさだけではない。気が付けば、何事もなせずに老人になった自分を受け入れなければならないという残酷さをつきつけられているのだ。「まずは生きてみなければわからない」「愛した分だけ愛されたいとは思わないこと」「無から生じたものは無にかえる」「ひとは誰でも二度役者になる。生まれたときと死ぬときと」「もし、あなたに出会わなかったら、私の人生どうなっていたかしら」箴言に充ちた台詞が舞台にちりばめられるが、どこか浮世離れしているような、つまりリアル感に欠けている気がした。男が人生の終幕を前にして、生きて来た意味を問い返せば問い返すほど、確かなことは何一つみつからない。台詞の多さと動態表現が激しかったのとは対照的に、娘が叫びながら皿を落としていくシーンが印象的だった。そこだけ、周囲の人も物も忽然と消えて、彼女の皿を落とすシーンと切り裂くような叫び声だけが芝居の中心に置かれているような錯覚に襲われた。舞台背景は真っ黒にして、長いテーブルと椅子だけのシンプルさだったら、生身の人生の深さが見えたような気がするのだが。これは私の好みなのだが…。2016・10・29
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(劇団ふぉるむ『正太くんの青空』演劇感想/2016・6・25、午後3時~4時40)
2016-06-29 Wed 22:10
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(劇団ふぉるむ『正太くんの青空』演劇感想/2016・6・25、午後3時~4時40)
玄関先から学校のうえにかかる雲の行方を追っていると、校庭で遊ぶ子どもたちの声が青空に吸い込まれていく。楽し気な笑い声にまじり「苦しいよ、空はこんなに青いのに、気がつけば死はすぐそこにある、ぴょこぴょこ」をキャッチしたら、怖いというより寂しい。学校へ続く坂道には車が数台止めてある。何か学校で異変が起きているのだ。こうした光景を芝居ではなく現実に何度も目撃してききた気がする。
『正太くんの青空』(作・高橋いさを/演出・くずわまさひろ)は、六年生のクラスで起きた「いじめ」「いじめ」がテーマになっているが、舞台に登場するのは子どもたちではなく、夏休みの学校の会議室に集められた加害者の親二組と被害者の母と、学校側(学年主任、担任、生活指導教師、研修中の男)など。/事件は確かに起きた。靴がズタズタにされた。教科書に落書きをされた。机のなかに蛙をいれられた。階段から突き落とされて怪我をした。「いじめ」の事実はある。だが認められない、認めさせたい。嫌疑をかけられた子どもの親の反論。親ならば自分の子どもを信じたい、もしかしたらと疑問に思っても、真実から目をそらせたい、あらゆる推論をめぐらして親たちは果敢に過激に抗弁していく。子どもたちは中学受験を控えているのだ。なるべく穏便にと事態収拾を図る教師たち。証拠品を提示し、現場目撃の用務員も呼びだされるにいたっては、法廷さながらの様相に。進展しない話し合いに業を煮やした正太の母は、控室に待機させられていた子どもたちを人質にとり教室に立て籠もる行動にでた。子どもを取り戻したい一心の親たちから明かされた真実から、事件は急展開。親たちが抱えた家庭の事情が吐露され、何かに追い立てられて「青空」を失くした子どもたちの寂しそうな顔が浮き彫りにされてきた。子どもの問題は大人の問題でもある。どこかで何かがすり替えられて「真実」が見えなくされていく。子どもたちの誰もがイノセンスではいられない「いじめ」問題は、想像している以上に深い社会的病理を抱えているのだ。劇場をでると大粒の雨であった。青空がみたいと思った。(寺田 操)
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土曜倶楽部の皆さまへ
2016-03-07 Mon 23:38
レッスンステージお疲れさまでした。
当日は午後6時と遅めの開演時間、転換の多いお芝居を打ち合わせなしのぶっつけ本番、という非常にご無理を強いる展開になってしまい、大変だったと思います。暗転で暗闇の中をウロウロさせまして、申し訳ございません。ちょっとだけ反省しております。
そういう厳しい条件の中、皆さんの熱演のおかげでいい舞台に仕上がったと思っております。ヴァイオリンに助けられた面はありますけれど、何より皆さんの語りの力というものを感じさせてもらいました。なかなか若い人には出せない味が出ていて作品の内容をストレートにお客さんに伝えることができたんじゃないかと思っています。
私があいさつで「お地蔵さんを作る以外何もしていません」と言ったのは半ば本音でして、決してほったらかしていたんじゃなくて、皆さんの表現力が作品の力に触発されて稽古のたびにどんどん増していく様子に口出し出来なかった、というのが正直なところです。
シニア演劇花盛りの昨今ですが、やる側の自己満足でなく、作品の内容をしっかり伝えることでお客さんに感動を与えるという演劇本来の魅力を発揮できているところがどれくらいあるだろうか、と私は疑問を持っています。そういう意味では土曜倶楽部、いいセンいってると思いますよ。身びいきですかね。「難しい」とか「暗い」という人もいますけどね。
私もシニア世代の一員として「年を取るのもまんざら捨てたもんじゃないよね」という老後を送りたいと思います。腰が曲がっても胸を張っていきたいですよね。ヘンな言い方ですけど。演劇を志す人間としてももう少し歩みを進めたいと思います。また違った風景が見えてくるのを期待しながら…
山口和也
お地蔵くん
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1981年の「上海バンスキング」
2016-01-11 Mon 09:08
上海バンスキング1981
上海バンスキング2010

1979年の六本木自由劇場での初演から1994年のシアターコクーンでのラスト公演まで合計435回の上演を記録したオンシアター自由劇場の『上海バンスキング』。演出串田和美・脚本斎藤憐。1936年、戦争前夜の上海を舞台にジャズメンとダンサーを描いた物語で、役者自らが楽器を演奏することでも話題になった音楽劇だが、何より主役の吉田日出子の歌と存在感が光る舞台だった。
1981年の全国ツアーの芦屋ルナホールでの公演の時、観客整理等のお手伝いに駆り出されたぼくが舞台裏をウロウロしていると、「おはようございます」とあの歌うようなふんわりした声で現れたのが吉田日出子さんだった。役者と観客が一体となった素晴らしい舞台と、終演後お客の送り出しにホワイエで演奏し続ける役者達、歌い続ける吉田日出子さん、それを取り囲んでいつまでも帰ろうとしない観客たち…当時の小劇場運動を象徴する熱気に満ちた光景は、今でもぼくの脳裏に焼き付いている。
その後劇団は解散するのだが、2010年、昔のメンバーが集まって16年ぶりに復活公演を果たす。しかしそれは不慮の事故による高次脳機能障害で言葉がうまく出なくなり、舞台から離れていた吉田日出子さんを「復活」させるための公演でもあったのだ…。
常時代役をスタンバイさせ、耳につけたイヤホンでプロンプを聞けるようにするなど、様々な配慮の元、公演はスタートする。ぴりぴりした空気を感じて出番が来ても舞台に出ようとしない吉田さんを、元劇団員のスタッフが「大丈夫、大丈夫、この人は舞台に出れば大丈夫だ」と呪文のように唱えながら決死の覚悟で背中をどーんと押す、押しだされた吉田さんは人が変わったように役の「まどかさん」になって舞台で輝き出す…といったエピソードはそれ自体一つのドラマのように感動的だ。そうした仲間の支えもあって吉田さんは、千秋楽までの二十ステージを一度も降板することなくやり遂げるのだ。
ここまで書いていると、ぼくはどうしてもわが劇団で復活を待ち望まれている一人の女優のことを思わずにはいられない。もう一度舞台で輝く彼女をみたい、性懲りもなくそのことを思っている。(山口和也)
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寺田操さん観劇録早速いただきました。
2015-10-25 Sun 22:04
眠れる森の美女・観劇メモ(2015・10・25 寺田 操)
劇団ふぉるむの秋公演は『眠れる森の美女』(別役実原作・山口和也演出)。24日夕方、数日前から風邪をひき咳き込みがあるので気になっていたのだが、席に座ったとたんに、独特の劇空間に入り込み、咳が気を利かして眠ってくれた。眠れる美女?のように。開演前の楽しみのひとつは、舞台装置をしげしげと眺めること。役者たちが登場するまでの「待機」あるいは「猶予」のわずかな時間に、小道具たちが自由に呼吸しているのがうかがえる。ふいにこの感じは埴谷雄高『死霊』だと冒頭部分を呼び出してみた。病院の高い塔の上にある古風な大時計。痩せぎすな長身の青年が病院の正門をくぐる。玄関の敷石を昇りかけると大時計が時を刻む。青年がしばらく時計を眺めて廊下を通過していく。ここは書物ではない演劇空間だが、心を病んだ人達の棲む世界が現われる予感。書物の世界ではこの最近、若手作家による童話や草紙などの変奏(再話)が盛んだ。糸紡ぎの針に刺されて眠ること、城に閉じ込められて眠ること、白馬の王子が眠り姫(いばら姫とも)を目覚めさせること、このモチーフは、どんなかたちで舞台に現われてくるのか、童話やディズニーでおなじみの『眠れる森の美女』を、別役実がどのように変奏してくれるのか。怖くて笑える不条理劇だろうか? 咳よ、咳よ、目をさますな!
 サティの音楽が流れる待合室へ入ってきたのは、婚約者の見舞いに訪れた傘にトランクのサラリーマン寅さん風情の男性だ。12階38号室の部屋番号をつげると、その部屋には誰もいない13階37号室の間違いだと言われ、安静時間が終わるまでいわれのある番号札を持たされる。時をうたない時計を眺める男性に「あなたの時間は、あなたの時計をごらんなさい」という受付の修道女のセリフが印象に残る。所在なさげに椅子に座る男。レース編みの女、狂暴なので拘束された姿の男、見舞い男性を診察しようとする男女、キツネを追いかける男性、虫取り網の怪しい男、死体?を運ぶ男。キツネを隠してくれと男に頼む見舞い女。医者、看護師、牧師、院長、掃除の男女など社会的なペルソナをまとっているが、妄想世界に迷いこんだ患者たちだ。舞台の上で魔訶不可思議な問答を繰り広げる。誰もいないはずの病室の扉が開くときがやって来た。部屋には銀の針が突き刺さったまま100年眠り姫と見守る眠り父がいた。眠っているかぎり生き続ける姫を誰が起こすのか?起きた姫はどうなったのか?幕が下り、「よくわからないけど、面白かったな」と言ったのは、私の代わりに咳き込んだ隣の席の人だ。
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